こんにちは!手嶋ぶどう園の手嶋洋司と申します。
平成29年、49歳のときに父の後を継ぎ、ブドウ農家になりました。毎日、ぶどう達ときらきらした毎日を送りながら、皆さんをちょっとだけ幸せにできるぶどうをつくりたいと奮闘しております。
学校を卒業して、そのまま農家になる人生もあったんでしょうが、私の場合、そうではありませんでした。
ぶどう農家に生まれ、物心ついた頃から「お前は農家の跡取りだから」と言われ続け、自分も農家になるんだな、と思っていました。
平日でもちょうど遊びが興に入った時刻にビニールハウスを閉めるというルーチンを与えられていました。
休日も友達みんなが遊んでいるのに仕事を手伝ったりすることも多く、かといって小遣いが友達より多いということもなく、むしろ少ない。
農業なんかやるもんか!という気持ちと学校で習った「職業選択の自由」が重なり、中学生のとき両親に農家にはならず学校の教師になりたい、と伝えました。
母は「お父さんはあんたに継がせるために無理をして畑を広げてきたと。大変やった。」とポツリと吐きそれっきり跡継ぎのことは言わなくなりました。
父は「がんばれ」と言ってくれたが、がっくりと落とした肩に何とも言えない気持ちになったことを今でもよく覚えています。
父のぶどう技術には定評があり、直売用のぶどう栽培のスペシャリストとして教えを請いにやってくる農家も多くおられました。
父がぶどうを育て、ぶどうも父に応えいい果実を実らせている様は、父とぶどうが会話し、信頼しあっているかのごときでした。父はぶどうの声を聞いていました。
結局、私は普通科の高校に進学し、大学に進学しました。その後、結局教員にはならずに勤め人となりました。
それから月日が経ち、父は亡くなる3年前に急にぶどう作りをやめると言い出しました。
自分の認知症に気づき、これ以上農業経営は無理だと悟ったからだったんでしょう。
私は、父がこのまま回復しないならば、デイケアや福祉施設で暮らすよりもぶどうの樹の下にいて、ぶどうと話している方が幸せに違いないと思いました。
「俺がぶどう作るから、父さん、俺に作り方を教えてくれよ」
父のこと、これまでの父が作りつづけてきたぶどうのこと、ぶどうで私たち兄弟を一人前にしてくれたこと、父のぶどうを毎年買ってくれている皆様のこと。
そして、このぶどうが無くなることが、どうしても受け入れられなかった私。
おれがぶどうをつくる、そう決めました。
それから一年、一年、ぶどうをつくっています。
ぶどうの声を聞いていた父は、令和2年5月、逝ってしまいました。
父が亡くなった翌朝、私にもぶどうの声が聞こえるんじゃないかと、畑に行ってみました。でも、私にはぶどうの声は聞こえませんでした。
ぶどうの声は聞こえなかったけど、ここで交わした父の声、父との思い出はどんどんどんどん溢れてくる。私にぶどうの声は聞こえません。でも、父の声は聞こえる。
父と話しながら、ぶどうをつくっていこう。
それでいい。
ぶどうと向き合い、ぶどうに取り組み続けた父と話をしながら、食べてくれた皆様をちょっとだけ、しあわせにできるぶどうをつくっていきたい。
ぶどうを作りはじめてお気に入りの風景があります。
それは7月、袋掛けが完了したぶどう園で、棚の下に腰掛け、「お前たち!がんばってあまくなるんだぞ!」そうやって声をかけているときの風景。
父の声を聞きながらぶどうが自由に思うままに伸びゆく環境を整えてあげよう。
私たちの仕事は、
「ぶどうの声を聞き、おいしいぶどうをつくる手伝いをする」ことだから。